結婚と性の道徳
道徳

道徳的混乱(続き)

そして、主に外的な社会の秩序に関心を持ち、行為そのもの、ないしはその意図よりもむしろ行為の結果に注目するために、遂には制定された規則に明らかに違反する事柄はすべて厳しぐ批判し、社会に不幸な結果を及ぼさない罪はこれを見逃すようになる。同一の家庭、同一の人が、婦人の義務に関しては結婚前にも結婚後にも極めて厳しい規則を設け、男子の性生活に関しては全く無頓着であるのを見かけることは、だれでもよく知っているところである。それはもとより道徳主義の頽廃であるが、主義とか制度とか規範とかいうものは、真底は常に人間の意志に従属しているのであるから、その頽廃は説明するに難くない。人間は主義・制度.・規範等を勝手に利用することができる。かくて人間の原理は、永遠の真理からははるかにかけ離れ、強者が弱者に対して自らを護る利己主義の案出物となる。しかして理想主義から発した道徳主義は、堕落してついに暴虐な因襲になりおわるのである。

性生活はそれ自身意味を持っている、その活力を表わすことは原理を固守するよりはるかに大切である、と信じている人々が今日立ち上がっているのは、この道徳主義の暴威に対抗してである。活力主義すなわち道徳に対する生命の優位を主張する人々が現代の文学を支配し、われわれの性生活の概念を革新した。,「われわれは真理を犠牲にしている。すなわち真実を血統の純正、血統の連続のために犠牲にしている」とアンドレ・ジイドは言った。そして彼は、「われわれ自身の目的に向かって真直ぐ進もう」と,いうモット!をかかげているあらゆる小説家、「非道徳主義者」の長となった。われわれは、現代の心理学、ことに正統的なフロイトの心理分析の大部分が、同じような福音を説いていることを知っている。性生活は容認すべき、十分に表現することを許さるべき自然力と考えられている。レンスのような小説家には性的本能に対する一種の崇敬さえ見られる。また他の人々、ことに〔第一次〕大戦後の作家たちの中には、反対に、性生活は光輝あるものであるどころではない、必然的な制止できない本能であると見る一種の幻滅的な写実主義を見出す。

この反動は避けがたいものであった。またある意味ではそれは役に立った。道徳主義の偽善と浅薄と横暴な性格は証明される必要があった。しかし反動だけでは十分でない。性生活の絶対自治を説き、あらゆる外的な統制を拒む場合、活力論者の傾向は性的な要素を全体の生活かまつら分離し、従ってそれを神に祀りあげるか純粋に肉体的な現象とみなすかしなければならなくなった。性生活はそれ自身において持つ意味よりほかに何の意味もない、性生活の目的は一つナンセンスの本能の表現以外の何ものでもない、という立場は、遂に、無意味すなわち虚無となり、性の価値を膨張せしめる。卓越した意味を持たないものは全然意味がない。性生活の聖書的な見方は道徳主義とも活力主義とも共通のものを持っている。道徳主義と同様、それは性生活が自律的でないこと、それを越えた現実に従属することを主張する。