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道徳
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道徳的混乱
われわれは非常な道徳的混乱と性的秩序の不安定な時代に生きているゆえに、まず何よりも基礎からはじめなくてはならない。家が倒れた時、われわれはいかにして新しい家を造るかをでなく、いかにしてもっと堅固な基礎を据えるかを論ずる。われわれは今まさにその立場にあるのである。
私は、今の時代が他の時代よりも余計にその行動が不道徳であると言うのではない。それを知ることは困難であり、証明することができない。ただわれわれは、もはや性生活における善悪を判断したり、\'われわれの行動や意志を導く規範ないしは信念を持っていないというのである。われわれの先祖がこの方面で罪を犯した時は、彼らはそれを知りつつ犯した。
しかしわれわれが罪を犯す時、われわれは罪を犯しているのだということさえ確かでない。逆に先人が神の意志に従った時は、彼らはそれを知って従った。\'しかしわれわれが神の意志に従いたいと願う時、われわれにはその内容がはっきりしない。そのゆえにこそわれわれは、そもそもの最初からはじめて性生活の意味如何、という根本的な問に対する答を求めなければならないのである。その間に対する答を求めることは、ごまかしの意見を与えることとは違った重要性を持つ(ごまかしの意見がどんなに実際的であろうとも)。性生活においては、人生全般におけると同様、「大きな堕落」を避げる唯一の道は、「岩の上に」建てることである。
細かいわずかな意見の違いは別として、当面のこの間に対し、今日大体三つの答が与えられているといえよう。すなわち道徳主義者の答と、活力論者の答、および聖書の答である。道徳主義は、世俗化したキリスト教とブルジョアの功利主義との一種の合成物で、不幸にして今日なおわれわれプ巨テスタント社会において大きな影響力を持っているが、この道徳主義ば、性生活そのものを、道徳原理に基づいた制度によって抑圧し統制しなければならない危険な事業とみなす。
それは性の力を、それが大きな害を与えないためには運河を通ずるか堤防を築くかしなければならない奔流とみなす。これゆえにこそ道徳主義は、ある部分を聖書から、ある部分をブルジョァの慣習から借りて規則を作り、それを厳守することを要求するのである。ゆえに性的な罪とは、その原理に基づいた制度に反するすべての事柄を言う。
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